こうやって愛したの 1

「え、梅田だよ。君覚えてないの」

プールサイドから片足をプールに突っ込み、菅さんが怪訝な表情を向けた。

 

 僕が2年前に菅さんに会ったのは、梅田といっても、随分と辺鄙な場所であり、大衆居酒屋といっても、これまたかなり客の少ない店だった。

 だから今思い返してみても、あそこが梅田だったというのが咄嗟に思い出せなかったが、菅さんと会ったことを覚えていないわけでは全くなかった。

「梅田だったかなと、首を傾げただけだ」

「あら、それなら良かったわ。杉本くんって、冷たい人だから。私のことだって、覚えているか心配だったのよ」

 菅さんはそう言って微笑したけれど、きっと自分が忘れられるなんて考えていない。それに、忘れられるはずがなかった。2年間、僕の中の僕の把握していない僅かな領域に、菅さんのこの微笑がずっと居た。

「ねえ杉本くん、2年前に、私が君に何の話したか覚えてる?」

  菅さんは微笑を湛えたまま、しかしどこか緊張感のある表情をしている。綺麗だな、と思ったけど、怖い、とも思えてしまう。僕はこの表情が苦手で、この2年間、彼女から逃げていたのではと、不意に自覚する。

「ずっと忘れようと思ってた」

 僕は1分ほど沈黙してしまったように思う。が、きっと5秒も黙っていなかったかもしれない。僕には分からない。僕は目の前のプールから目を離さない。

 顔を動かさず、僅かに菅さんを視界に入れる。

「なあ、殺したのか?」

「なぜあなたに言わなくちゃいけないの?逃げたじゃない」

 菅さんが僕から離れて行く。今度は離さない。そう思い、彼女を追う。

 2年前の夏だった。僕は大学を卒業して京都に就職して半年が経っており、大阪に残った菅さんとは若干疎遠になっていたが、久々に彼女から連絡をもらい、もう彼女のことなど、完璧に諦めたと自分の中で決意していたことすら忘れ、鼻歌交じりに阪急電車に乗った。

 久々に会った菅さんは、悲惨な状態だった。

 いや、パッと見て悲惨だなと思ったわけではなく、梅田の大衆居酒屋で、彼女がサマーセーターを捲り上げた時に、僅かな時間でも欲情した自分に嫌気がさすほど、悲惨だった。

「殴られるの」

 菅さんは僕を見ない。壁に貼られた、そこそこ有名な女優がビール瓶を笑顔で持っているポスターを見つめていて、その表情があまりに冷たく、それが僕に対して助けを求めているのだと気づくのに、酷く時間がかかった。

「警察に行こう」

 「嫌よ」

 それが最善だとしても、菅さんにとって最良ではないことは明らかだった。彼女がキッと僕を睨む。

 そして、しばらくすると、あの微笑に戻って、言う。

「兄を殺して」

 この後どんな会話をしただろう。今となってはボヤけていて、上手く再生されない。

 しかしこれだけは明瞭だ。

 僕は結局、最後まで頷かなかった。