君とは笑えない
家に風呂がない、といっても言い過ぎではないように思えるほどだ。
私の家にはシャワールームがあり、それはここに住む者全てが共用している。
そもそも、家と呼ぶレベルに到達していない、とすら言えるが、自身の寝床をそうも貶すこともないだろう。
「銭湯に行こう」
そう言って小田に声をかけるも、
「もう入ったよ」
と断られる。
あのシャワールームは入ったとは言わん、と思いながらも、小田の部屋をあとにする。
まあ、私もシャワーを浴びたことを、風呂に入ったと言うことはあるなと、やや反省しながら家を出た。
11月も終わりの夜の9時、随分と寒くなってきたなと感じる。
寝巻きにジャケットを羽織ってきたが、しかしまだ肌寒い。
寒さに耐えながら5分歩き、行きつけの銭湯の看板だけが明るい路地へ入る。
駐車場は無く、ここまでのアクセスは基本的に徒歩か自転車、店の前に駐まる自転車の数は少なかった。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れない若い女性の声だった。
番台に座るにはあまりにも若い、少女とすら思える風貌の女性が私を出迎えた。
「450円です」
女子高生くらいだろうか。愛想が良く、無垢で汚れのない笑顔で金を請求する。
この少女に金を支払い風呂に入るのは、何か猥褻な行為のようで後ろめたく感じたが、支払わないのはもっと良くない。
私は500円を支払い、50円のお釣りを受け取る時、彼女の温かい手に触れた。
彼女も私の体温を感じたらしく、
「つめた…、ゆっくりと温まってくださいね」
と微笑んだ。
その笑顔に嘘が無いように感じ、彼女の実直さに私は答えに詰まり、無言で脱衣場へ入った。
そしてすぐに後悔した。
情けない、まるで女の手に初めて触れたような振る舞いだ。
いや、待てよ。
だいたい、いつもの禿げた親父はどこに行ったんだ、あの親父の娘なのか、あんな若いのを番台に立たせるんじゃねえよ、と自身の不甲斐なさを名前も知らない中年に責任転嫁し、私の後悔はほとんど消失した。
まず最初にサウナへ向かい汗を流し、汗もろともをシャワーで洗い流すのが、私のいつもの銭湯での流れである。
サウナに入ると、既に7人が入っていた。
私にはサウナにおいて、一つだけルールを設けている。
それは、自分より先に入っている者よりは、先にサウナを出ないことだ。
こうやって愛したの 2
菅さんと出会ったのは意外にも、大学3回生の春だ。随分と長い時間を彼女と過ごしたように思えていたが、頻繁に会っていた期間は2年ほどだった。しかしその期間などは関係なく、彼女との時間はとても濃厚で、色褪せない。
「ねえ、杉本くん、あの娘知ってる?」
僕が食堂でカツ丼を頬張っていると、長机を挟んで対面に座った日菜子が尋ねてきた。日菜子の方を向くと、彼女の小さな人差し指が、僕の斜め左後ろを指差しており、顔だけ振り向き確認すると、5メートルほど離れた位置で、黒髪でボブの唇の赤い女がこちらを睨んでいる。僕はすぐに日菜子の方を向き直り、「指差すな、ばか」と窘めた。
「ごめん。でもね、あの娘、噂なんだ。菅さんって名前。この春から編入してきたらしいよ」
「編入?」
「そうそう。短大を卒業して、別の大学で3回生から続ける制度があるじゃん。彼女がそれ。」
「ふうん。でもさ、そんな人、何人かいるでしょ。なんで噂になってんの」
「それはね…、あ、待って、もうこんな時間か、マズいね。サークル行かなきゃ。打ち合わせあるからさ」
「あ、おい」
日菜子はさっと立ち上がり、「ではでは」と言って去って行った。彼女が飲んだコーラの空き缶が、長机に置きっ放しになっている。
「捨てろよな」
と声を掛けるが、日菜子には届かず、彼女は既に食堂の出口に差し掛かっていた。逃げ足がなかなか早い。
腕時計を見ると、間も無く3限が終わるようだ。今日、僕は1,2限で授業が終わり、アルバイトの予定もないことから、日菜子のサークルまでの暇つぶしに付き合っていた。
食堂は昼のピークを過ぎて、閑散としている。ふと気になって、左後ろをこっそりと振り返った。名前を何と言ったか、そう、菅さんだ。菅さんはこちらを見ておらず、何やら文庫本のようなものに熱中している様子だった。
僕は小説が好きで、本を読んでいる人がいたら老若男女問わず、一瞬惹かれてしまう。どんな本を読んでるんだろう。先ほど日菜子に中途半端に聞いた内容も気になる。
それに、可愛かった。大学はたしかに人が多いが、3回生にもなると、知った顔が多くなってきて、新たな出会いは期待できない。新入生は目新しいが、僕は元来、年下というのはどうも苦手だった。そう思うと、菅さんは新鮮で、とても魅力的に思えてきた。
考えていたら居ても立っても居られなくなってくる。僕は唐突に立ち上がり、回れ右をした。
僕の回れ右の勢いの良さに菅さんが顔を上げ、目が合い、これまた勢い良く、僕は前進した。
「座っていい?」
閑散とした食堂で、僕だけが立っている。食堂には10人もおらず、チラチラと見られているのが、見渡さずとも、認識できる。
思わず、 僕が勝手に対面の座席に座ると、菅さんは露骨に嫌な顔を見せた。その顔がとても綺麗だ、と僕は思った。
こうやって愛したの 1
「え、梅田だよ。君覚えてないの」
プールサイドから片足をプールに突っ込み、菅さんが怪訝な表情を向けた。
僕が2年前に菅さんに会ったのは、梅田といっても、随分と辺鄙な場所であり、大衆居酒屋といっても、これまたかなり客の少ない店だった。
だから今思い返してみても、あそこが梅田だったというのが咄嗟に思い出せなかったが、菅さんと会ったことを覚えていないわけでは全くなかった。
「梅田だったかなと、首を傾げただけだ」
「あら、それなら良かったわ。杉本くんって、冷たい人だから。私のことだって、覚えているか心配だったのよ」
菅さんはそう言って微笑したけれど、きっと自分が忘れられるなんて考えていない。それに、忘れられるはずがなかった。2年間、僕の中の僕の把握していない僅かな領域に、菅さんのこの微笑がずっと居た。
「ねえ杉本くん、2年前に、私が君に何の話したか覚えてる?」
菅さんは微笑を湛えたまま、しかしどこか緊張感のある表情をしている。綺麗だな、と思ったけど、怖い、とも思えてしまう。僕はこの表情が苦手で、この2年間、彼女から逃げていたのではと、不意に自覚する。
「ずっと忘れようと思ってた」
僕は1分ほど沈黙してしまったように思う。が、きっと5秒も黙っていなかったかもしれない。僕には分からない。僕は目の前のプールから目を離さない。
顔を動かさず、僅かに菅さんを視界に入れる。
「なあ、殺したのか?」
「なぜあなたに言わなくちゃいけないの?逃げたじゃない」
菅さんが僕から離れて行く。今度は離さない。そう思い、彼女を追う。
2年前の夏だった。僕は大学を卒業して京都に就職して半年が経っており、大阪に残った菅さんとは若干疎遠になっていたが、久々に彼女から連絡をもらい、もう彼女のことなど、完璧に諦めたと自分の中で決意していたことすら忘れ、鼻歌交じりに阪急電車に乗った。
久々に会った菅さんは、悲惨な状態だった。
いや、パッと見て悲惨だなと思ったわけではなく、梅田の大衆居酒屋で、彼女がサマーセーターを捲り上げた時に、僅かな時間でも欲情した自分に嫌気がさすほど、悲惨だった。
「殴られるの」
菅さんは僕を見ない。壁に貼られた、そこそこ有名な女優がビール瓶を笑顔で持っているポスターを見つめていて、その表情があまりに冷たく、それが僕に対して助けを求めているのだと気づくのに、酷く時間がかかった。
「警察に行こう」
「嫌よ」
それが最善だとしても、菅さんにとって最良ではないことは明らかだった。彼女がキッと僕を睨む。
そして、しばらくすると、あの微笑に戻って、言う。
「兄を殺して」
この後どんな会話をしただろう。今となってはボヤけていて、上手く再生されない。
しかしこれだけは明瞭だ。
僕は結局、最後まで頷かなかった。